ひょうごはじまり館

  • 日本語

3-5.

町のすがた

江戸時代を通じて、兵庫津ひょうごのつの町は発展を続けます。低湿な場所や海岸をめ立て、町場が広げられました。町の北側では、佐比江さびえが埋め立てられ町場となり、湊川みなとがわを越えて東側にも町場が広がります。また尼崎藩時代まで残っていた兵庫城の堀も、幕府領になると埋め立てられ、町場となっています。港のにぎわいが人々をこの町によび寄せ、幕末には約7,400軒の家に約2万人が住む都市に成長しました。繁栄を誇ったこの町は、昭和20年(1945)3月17日の神戸大空襲によって江戸時代の面影を失いましたが、その痕跡こんせきは遺跡となって地下に残されています。これまでにおこなわれた発掘調査によって、絵図に描かれたとおりに並ぶ短冊形の屋敷地や宝永5年(1708)の宝永の大火の痕跡、絵図に描かれていたとおりの真光寺しんこうじの堀、朝鮮通信使が宿泊した浜本陣はまほんじんなど、兵庫津の町とそこでの人々の暮らしが明らかになっています。