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生まれ変わる兵庫津
天正8年(1580)、池田恒興が織田信長に命じられて兵庫津の中心に兵庫城を築きました。周囲は幅約9~18mの海水を引きこんだ水堀をめぐらせていて、堀をふくめると南北約146m、東西約131mの規模になります。これまで城の構造がくわしくわかりませんでしたが、発掘調査によって主郭(本丸)の東側に副郭を置き大手の防御を強化していたことがわかりました。兵庫の町は築城とともに土塁と堀で囲まれた惣構の構造になっており、この時築かれた土塁は明治時代はじめまで残っていて都賀堤とよばれていました。江戸時代に入ると兵庫津は尼崎藩の支配下となり、兵庫城跡には陣屋が置かれました。明和6年(1769)の上知によって西宮から兵庫津にかけての一帯が幕府領となると、兵庫津には大坂町奉行所の兵庫勤番所が置かれます。与力や同心といった役人が町の支配にあたりますが、町政は町人による自治によっておこなわれました。北浜・南浜・岡方の3つの地区ごとに惣会所が置かれ、町役人である名主や惣代が事務をとりました。