ひょうごはじまり館

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兵庫県誕生のとき

江戸幕府の直轄領ちょっかつりょうであった兵庫津ひょうごのつは、幕府の瓦解がかいにより支配者を失います。神戸事件直後の混乱の中、事件への対応のため勅使東久世通禧ちょくしひがしくぜみちとみ外国掛がいこくがかり岩下佐次右衛門いわしたさじえもん寺島陶蔵てらしまとうぞう伊藤俊介いとうしゅんすけらが派遣され、兵庫津は新政府の支配下に入ります。これ以後、兵庫津には新政府の役所が置かれ、兵庫役所、兵庫鎮台ちんだい、兵庫裁判所と名称が変わりますが、西宮など近隣の旧幕府・旗本領の統治と外国事務の拠点となります。播磨では名門譜代ふだい大名である姫路藩酒井家が朝敵として討伐対象となりますが、藩主不在の中、家臣たちの判断で姫路城を開城し新政府に帰順します。また丹波・但馬方面には西園寺公望さいおんじきんもち総督そうとくとする山陰道鎮撫使ちんぶしが派遣され、各藩が帰順します。そして慶応4年 5 月 23 日(1868 年 7 月 12 日)、兵庫県が設置され、初代知事に当時 26歳の伊藤俊介(博文ひろぶみ)が任命されます。内国事務を東条慶次とうじょうけいじが、外国事務を中島作太郎なかじまさくたろうが、それぞれ判事として担当し、北風正造きたかぜしょうぞうら兵庫津の町役人も新政府による統治を助けました。