ひょうごはじまり館

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2-6.

戦乱の時代

文正2年(1467)応仁おうにん文明ぶんめいの乱がはじまり、兵庫津も戦乱に巻きこまれていきます。文明元年(1469)10月16日、西軍の大内方が占領せんりょうする兵庫津ひょうごのつを、東軍の山名是豊やまなこれとよが播磨の赤松勢とともに攻撃します。兵庫津の関所や寺はすべて焼けてしまい、多くの住人が命を落としました。戦いは大内方が敗れ、兵庫津は東軍の支配下に置かれました。このため、明使や遣明船は兵庫津を避けて泉州堺から発着するようになります。応仁・文明の乱の後、兵庫津は瀬戸内海の物流拠点として再び商業活動が活発化し、兵庫北関きたぜき
南関みなみぜきも東大寺、興福寺によって復興されます。戦国時代には阿波(徳島県)出身の三好長慶みよしながよしがこの地域を支配し、兵庫津は三好氏の本拠地である四国と畿内きないを結ぶ重要な港となります。長慶のもとで兵庫津をふくむ西摂の支配を担ったのが松永久秀まつながひさひでです。久秀は兵庫津の北東にある滝山たきやま城(神戸市)を拠点にしました。その後荒木村重あらきうらしげが摂津を支配するようになると、花熊はなくま城が拠点となりました。