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源平合戦と平家の滅亡
清盛は福原から京都に戻った3か月後に急死し、寿永2年(1183)、都にせまる木曽義仲を前に平家一門は西国へと都落ちします。しかし寿永4年(1185)には源氏側の混乱に乗じて勢力を立て直し、福原まで戻っていました。ところが義仲を倒した源範頼、義経軍が生田の森、一ノ谷、鵯越の3方向から福原を攻めると、平家は多くの犠牲者を出して四国屋島方面に敗走しました。これが平家滅亡への第一幕である一ノ谷の戦いです。この合戦の戦場は神戸市街地西側の広い範囲にわたりました。この戦いを「一ノ谷の戦い」と呼ぶのは、源義経の一ノ谷での活躍によりますが、この義経の攻撃は「鵯越の逆落とし」と伝えられてきました。一ノ谷と鵯越とは約7kmも離れています。このため一ノ谷と鵯越の場所をめぐり、鵯越も広い意味での一ノ谷の一部であると考える説や、鵯越での多田行綱の活躍が義経のこととして語られるようになったという説など、諸説が語られています。